北脇昇
名古屋市に生まれる。
幼い頃京都に移り、鹿子木孟郎、後に津田青楓の洋画塾で学ぶ。第19回二科展に初入選。
翌年、津田が治安維持法違反で検挙されて画塾が解散すると、塾生をまとめ独立美術京都研究所を開設。
以降、新日本洋画協会、
美術文化協会を結成するなど精力的に活動を広げる。独自のシュルレアリスム絵画を追求し、日本の前衛美術運動を推進した。
『眠られる夜のために』
青暗い闇の中に一筋の光が差し込み、幻想的な世界が広がっている。
浮かび上がるホトケノザは、聖像に見立てられているようだ。
静寂の中で光を受けて、緑色のつぼみからピンク色の花へと変化する様を、
擬人化された木や石のオブジェが驚いたように見ている。
和菓子のコンセプト
上下に分かれた寒天は光の境界線を、微かに浮かぶ梅の果肉は浮かび上がるホトケノザに見立てています。
瀬戸内の橙果汁を使用し、幻想的な作品の雰囲気を表しています。
作品画像はこちらをご覧ください。
北脇昇『眠られる夜のために』
展示と販売
京都市京セラ美術館ミュージアムカフェ ENFUSE様、京都市京セラ美術館(京都市美術館)様にご協力いただきました。
京都市京セラ美術館 コレクションルーム夏期の展示期間中、ENFUSE様にてご提供させていただいております。
京都市京セラ美術館
「幻想の系譜―西洋版画コレクションと近代京都の洋画」
※観覧料等詳細は、美術館サイトにてご確認下さい。
https://kyotocity-kyocera.museum
北脇昇と作品についての私感
今回の『眠られる夜のために』は1937年昭和12年の作品。
スイスの哲学者カールヒルティの著書のタイトルより名付けられたそうです。
これまで、コレクションルームの作品は主に日本画を中心に扱っておりましたが、昭和の作品も修蔵されており、その中の一つになります。
北脇昇は愛知県の出身。京都に引越し同志社中学に入学。
1919年、中学中退後、鹿子木孟郎の画塾に、また、1930年、津田青楓の画塾に入る。
1932年、第19回二科展に初入選。
1939年、福沢一郎ら40名の前衛活動家と共にシュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となる。
「シュルレアリスムの画家」と紹介される事が多いですが、外国から入ってきた最新の思想と技法。
その思想の方を取り入れ、違った方法、独自の方法論で「シュルレアリスム」を解釈していた方です。
『眠られる夜のために』は、日本にあった「見立てる」という手法を通じて超現実世界を表現しようとした一連の作品群の中の一つ。
北脇も影響を受けたであろうシュルレアリスム宣言では
「シュルレアリスムとは口頭、記述、その他あらゆる手段で思考の真の過程を表現しようとする純粋な心的オートマティスムである」と定義されています。(1924年)
この思想が絵画や演劇といった他ジャンルの芸術に飛び火し、それぞれのジャンルで「純粋な心の動き」を求められました。
反面、日本では自然にできた竹の節などを「○○」に見立てる、岩の窪みを「○○」と見立てるというような事が行われてきました。
一つのきっかけや見方を投げかける事によってまるで物体が違ったものに見えてくるということ、その心の動きも一つの「純粋な心的オートマティスム」なのでは?
と北脇は考えたのでしょうか。
正直なところ、私にはシュルレアリスムの概念と「見立て」によって達成されるものの関連性がしっくりきているわけでは残念ながらありません。
ただ、今回の作品のように、「中央の花に一筋の光が刺す=周りの自然物がまるで観客のように見える」というのは、無意識の状態で心が動いている、
と言えると思います。
その後、北脇はマンダラなどの東洋文化、自然科学や数学などを取り入れた独自の作品を発表します。
2020年には東京国立近代美術館にて[北脇昇 一粒の種に宇宙を視る]という展覧会も行われていたようです。
戦前の作品、戦中の作品(楓の種子を飛行機に見立てた作品や、実際に起こったといわれている戦史を元にした作品など)といろいろな手法が見られます。
戦後には『クォ・ヴァディス』という男性の後ろ姿の作品を描かれています。
戦争のあとの虚無感と選択を迫られている様子が見て取れるます。
その一連の作品群の中で見てみると、全体的に暗いトーンの『眠られる夜のために』は、
海外の思想に影響を受けて新しい試みに挑戦している画家の心踊る様が感じられるような気がしています。