Japanese art × Wagashi

Tsuchida Bakusen【平牀】

土田麦僊『平牀』 コラボレーション和菓子

土田麦僊

新潟県佐渡(さど)郡に生まれる。
最初鈴木松年(すずきしょうねん)の門に入った後、竹内栖鳳(たけうちせいほう)に師事。
第2回文展で「罰」が初入選。京都市立絵画専門学校別科に学び在学中、「黒猫会(くろねこかい)」、「仮面会(かめんかい)」を結成。
また、1915(大正4)年、村上華岳らとともに「国画創作協会」を設立。
同協会解散後は帝展に復帰する。
1934(昭和9)年帝国芸術院会員となる。

『平牀』


民族的な伝統とは異なる白を基調とした抑制された色彩で描かれた、寝台に座す女性と脇に立つ二人。
寝台の水平線に対して、立つ女性の頭部を頂点に、座す女性の頭部を経て鏡に至る斜線が三角形を成し、衣文の流麗な線が呼応する。
朝鮮の妓生への取材が研ぎ澄まされた造形に結晶している。


和菓子のコンセプト


「緩やかな曲線は女性の衣装を、金箔は胡粉をイメージしております。
中のあんこには、作品の舞台となった朝鮮半島でよく食されているナツメとサンザシを練り込んでいます。」


展示と販売

京都市京セラ美術館ミュージアムカフェ ENFUSE様、京都市京セラ美術館(京都市美術館)様にご協力いただきました。
京都市京セラ美術館 コレクションルーム冬期の展示期間中、ENFUSE様にてご提供させていただいております。

京都市京セラ美術館
[2022 冬期]コレクションルーム「東アジアと近代京都の美術」
※観覧料等詳細は、美術館サイトにてご確認下さい。hhttps://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20221204-20230305


土田麦僊と作品についての私感


麦僊は若い時から絵が上手く、京都にやってきて鈴木松年の門に入りました。
その頃の京都画壇では一流の門でしたが、竹内栖鳳らの新しい勢力に魅力を感じ栖鳳に師事します。
デビュー作は中国を題材にしておりましたが、次第に民衆の姿を描くようになります。
その後、ゴーギャンの影響を色濃くうけ、南国的で洋画的な作品を発表し、その流れで日本画との融合を目指し「湯女」を発表します。
この作品は「平安の大和絵、桃山の障壁画や風俗画とルノワールを総合した、、華麗な美」(内山武夫)と称され、 日本画側からみると新しい刺激であった洋画の美意識や手法を持ち込み、融合させた一つの頂点だったのだと思います。
大正8年には背景を描かない舞妓の作品「三人の舞妓」を発表。
次のような言葉を残しています。

「モデルの舞妓に対して特に心理的に解釈しようとは思わない。早くいつたら舞妓の性格などは自分に取って問題ではなかつた。或いは舞妓といふものは殆ど性格の持ち主でない気がする。
或つ人は文学的に舞妓の性格を描くかもしれない。又或る人は、一つの女性を以て描くかもしれない。しかし自分には舞妓も一茎の花も其処に何の変わりもない。
丁度洋画家が林檎を並べて凝視した時の心持ちなのだ。只自分は其処に色及び量の塊を見た。モデルを凝つと見詰めてシーンと落ち着いたものを描いてみたいと思ふのであつた。」(3人の舞妓についての雑感ー大正10年ー)

大正10年からフランスやイタリアを周遊、洋画作品を(日本画の画材が手に入らなかったということもあり、)制作します。
帰国後、セザンヌやルノワールの影響を受けながらも、同時に日本の古美術もヨーロッパのそれと同等に素晴らしいものであると感じ、 新しい日本的なものと西洋的なものの融合を目指します。
    帝展に発表された「舞妓林泉図」などは、ヨーロッパで見てきたものを紹介するような意味合いもあったのかもしれません。
昭和に入ると、静物の作品が増え、背景のない人物画や植物をモチーフにします。
昭和8年に今回の作品『平牀』が発表されます。
これは、朝鮮半島に旅行した際に描いたもので、「平牀」日本でいう舞妓のような存在です。
朝鮮半島の伝統的な民族衣装派手な色味のものが多いそうですが、この頃は庶民の間では白い衣装が流行しており、その色合いを繊細に描いています。
また、それまでの作品とは人物の描き方が変わっており、人物だけ見ると足や手の長さが写実的ではないのですが、 全体でみるとデザインされているように見える作品で、先の麦僊の考え方「林檎を並べたように」人を描くという手法の極地なのではないでしょうか。
朝鮮半島にいる間に、なかなか良い作品ができないといった内容の手紙を出していたりと、苦労して描いた作品だそうです。
また、洋画では陰影をつけて表現される布のドレープを線で表現するというのも日本画家としての挑戦だったのかもしれません。
帰国後発表された展示会では地味すぎて素通りされることもあったと言われておりますが、画家の遍歴の中でみると特殊な作品であることが伺えます。
この頃から病にも侵されており、昭和11年には49才でお亡くなりになられました。
晩年に静物を描き、或いは人物を静物のように描くことになったのは、 静けさの中の現実離れした美しさと、現実的な美しさの融合を目指していたのかもしれません。
洋画という新しい刺激やヨーロッパの美意識、日本の古いもの、中国の古いもの全てに影響を受け、取り入れ、 融合させて行くという最先端を走るアーティストのような姿勢は、とても現代的で、それを自分のものにするという自身と使命感があった人なのではないかと思いました。
*参考資料
土田麦僊展 図録(1997年)
また、作品について、今季のコレクションルーム担当学芸員の森様にレクチャーをいただきました。