秋野不矩
あきの ふく、(1908年- 2001年)は、静岡県出身の女流日本画家。
昭和初期より西山翠嶂門下で官展の入選・特選などを重ねた。
戦後は画塾を出て「創造美術」(現創画会)の結成に参画する一方、美術学校(現京都市立芸術大学)にて後進を指導。
50代で赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。
紅裳
作者によると女性の様々な姿勢を円形に配し、種々の紅色をそこに投入してみた作品。
当時の作者の自宅に近い京都ホテルの上品な従業員をモデルに貴賓室の調度を借りて構想を練った。
画中には5人の女性が描かれているが、そのうち4人は同一人物を別々の角度から描いている。
初期より優れた画面構成に才を見せた作者の意欲作である。
私感
秋野さんは静岡県二俣町出身(現在の浜松市天竜区)田舎暮らしで絵を描いて遊んで育ちました。
小学校6年生の時に東京の美大出身の教師に出会い、ゴッホやゴーギャンを知り、
女子師範学校を卒業後、小学校教師として赴任されます。
しかし、一年でやめ、画家になるために千葉県の画家石井林響の内弟子になりました。
そこでは、主にお手伝いのようなことをしていたそうですが、林響が倒れたことを契機に、京都へ出て
西山翠嶂の画塾「青甲社(しょうこうしゃ)」に入塾されました。
翌年早くも帝展に初入選、以来入選を重ね、戦後は仲間と新しい日本画の団体「創造美術」(現創画会)設立し精力的に活動、
その後京都市美術学校(現京都市芸術大学)にて25年間勤められました。
54歳の時にインドの大学に客員教授として出向いたのをきっかけに、インドの風景や風俗、寺院を描いた作品を発表され、
「インドを書く日本画家」として有名になられます。晩年は京都の美山町に移住され91歳で文化勲章を受賞されました。
秋野不矩さんは知れば知るほど魅力的な作家さんでした。
インド以降の作品で有名なのですが、それ以前も受賞、入選作品が沢山あります。
ただ、惜しいことに、ご自宅が二度火災にあい、多くの作品は消失してしまっている関係で、
図録でも初期の作品として掲載されているのは、今回の「紅裳」の他数点となっております。
千葉県での修行時代はほとんど絵は描かせてもらえなかった(絵具の用意などはしており勉強にはなったそう)
年表を見ると京都へ来た翌年には帝展に入選されて、その後も順風満帆というように思えますが、実は一昨だけ入選しなかった作品があったそうです。
それは、ガリガリの犬を描いたもの(わざわざガリガリの犬を探して描いたそう、、)だったそうですが、評判が悪く、その後軌道修正して、
京都らしい華やかな世界観の作品を次々に発表されます。
(ただ、この犬のような作品を描きたいという気持ちが晩年のインド作品につながっていくのではないかと解説されている方もいらっしゃいました。)
当時、日本画家は、帝展などで名をあげると仕事が来る=家に飾るような作品の依頼=花鳥風月が好まれる。というような図式だったそうで、
今のいわゆるアーティストというようなイメージとは少し違った職業だったそうです。
紅裳
紅裳はそんな初期の時代に、売れ線と自分の描きたい強烈なイメージの間にあるような微妙な立ち位置に生まれた作品であり、
その不安定な部分がなんとなく見ている人をグッと引き寄せているような気がします。
(インド作品のこれが描きたかったこと!というようなストレートな力強さとはまた違った魅力)
そんな青春的な不安定の中にも、絵具使うことが嬉しい(京都では画材屋さんで沢山の絵具を見て感動したそう)といったような単純な
「絵を描くことの喜び」、洋画的な構図の取り入れ「チャレンジの楽しさ」などがつまっているのだと思います。
そして、2輪の花、四角のテーブル、5人の女性というモチーフの作品は、よく考えると不可解なバランスで成り立っています。
5種類の着物を描きたかった?絵具が5種類あった?というような単純な理由があるのでは、と疑ってしまいます。
また、晩年の図録ではモデルは3人だった、、というような作家の発言もあり、謎が謎を呼んでいます。
是非、そんな部分にも注目し作品をご覧ください。
和菓子のコンセプト
2人のモデルで5人を描かれたことから2色の赤を配置し、
四角形のテーブルを5人の女性が囲んでいる構図を四角と5つの切れ込みで表しています。
中餡には、秋野不矩ゆかりの美山の料理店[もりしげ]の柚子ジャムを使用しております。
展示と販売
京都市京セラ美術館ミュージアムカフェ ENFUSE様、京都市京セラ美術館(京都市美術館)様にご協力いただきました。
京都市京セラ美術館 コレクションルーム冬の展示期間中、ENFUSE様にてご提供させていただいております。
京都市京セラ美術館
[2024夏期]コレクションルーム 特集「女性が描く女性たち」 2024年7月19日-2024年9月27日 会場[ 本館 南回廊1階 ]
※観覧料等詳細は、美術館サイトにてご確認下さい。
https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20240719-20240927
今回のお菓子の製作に過去出版された図録、以下の論文などを参考にさせていただきました。
大須賀潔著 [秋野不矩 人と芸術 -インドとの出会いまで-]
また、浜松市秋野不矩美術館では、鈴木館長様、新海学芸員様に貴重なお話をお聞かせいただきました。
また、南丹市立図書館美山図書室、美山民俗資料館、[もりしげ]様では、不矩さんのお話をお聞かせいただきました。
美山は不矩さんが晩年を過ごされた土地なのですが、文化勲章を受賞された時には美山文化ホールでパーティーがあった(現在は美山文化ホール玄関に不矩さんの作品のレプリカ
が展示されています。)とか、飼ってた猫の名前は「りーちゃん」だったと思うとか、着物で過ごしておられたけれど夏場はサリーにパン
ツルックだったとか、息子さんの友人で自宅兼アトリエにお邪魔したら「この絵の続きどうしたらいいと思う?」と聞かれて困ったとか、
美山から京都市市内まで一人でバスを乗り継いで行っておられたとか、茅葺の民家である[もりしげ]さんの建物の床の間にはなぜかインドの神様
が祀られているがそれはもりしげのご主人が不矩さんと一緒にインドに行かれた時に買ってこられたものだったとか。
美山で秋野不矩さんについて調べていますというと、みなさんが色々なエピソードを教えてくださり、とても愛されておられた方だったのだなと思いました。